ピカデリー - オンラインパズル

ピカデリー

ピカデリー(英: Piccadilly、)は、ロンドン・シティ・オブ・ウェストミンスターにある通り。西端のハイド・パーク・コーナーと東端のピカデリーサーカスを繋ぎ、ロンドン南西部のメイフェアへ至る。また、ロンドン中心部から西進してハマースミス、アールズ・コート、ヒースロー空港、M4高速道路へ至るA4道路の一部でもある。

この道の東部では南側にセント・ジェームズ地区があり、西部では北側に建物が建ち並ぶ一方(メイフェア地区)、南側にはグリーン・パークがある。ピカデリーは全長およそ1マイル (1.6 km)で、またロンドン中心部で最も幅広く最長の直線道路の一つでもある。

通りは少なくとも中世から主要な道路の一つで、この頃には「レディングへ至る道」や「コーンブルックに至る道」として知られていた。1611年から1612年頃、ロバート・ベイカー(英: Robert Baker)が土地を取得し、ピカディルの製造販売で成功を収める。土地を買った直後、ベイカーはこの土地をぐるりと囲んで、自宅であるピカディリー・ホール(英: Pikadilly Hall)などいくつかの建物を建設し、これが地名の元となった。

現在のピカデリーは、1663年にチャールズ2世の妻でポルトガル出身だったキャサリン・オブ・ブラガンザに因んで「ポルトガル・ストリート」(英: Portugal Street)と名付けられた。また、1668年にはグリーン・パーク建設のためチャリング・クロスからハイド・パーク・コーナーに至る道が閉鎖され、これにより交通上の重要性が余計に高まった。道の北側にロンドンで最も壮麗な住宅の一部が建設されたのもこの頃で、クラレンドン・ハウスやバーリントン・ハウス(1664年建築)などが一例として挙げられる。クラレンドン・ハウスと同時期に建てられたバークリー・ハウスは1733年に焼失したが、1737年にウィリアム・キャヴェンディッシュ (第3代デヴォンシャー公爵)の手でデヴォンシャー・ハウスとして再建され、後にはホイッグ党の本部としても用いられた。バーリントン・ハウスには、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ロンドン地質学会など、複数の有名協会の本部が入居している。また、通りの西端には、ロスチャイルド家の分家のひとつ、イングランドのロスチャイルド銀行家の複数人が大邸宅を構えていた。1684年にはセント・ジェームズ教会が聖別され、周辺地域はセント・ジェームズ教区となった。

155番地にあったオールド・ホワイト・ホース・セラーは、18世紀後半のイングランドで最も人気なコーチング・インのひとつであり、またこの時までに本屋がひしめくようにもなっていた。バス・ホテルは1790年頃、ウォルシンガム・ハウスは1887年に建設され、買収・取り壊し後、跡地に高級ホテル・リッツ・ロンドンが建設された(1906年)。通りの東端にあるピカデリー・サーカス駅は、チャールズ・ホールデンが設計し、1925年から1928年にかけて建設された。この駅は地上構造を持たない初の地下鉄駅で、通りにある地下道の入口が駅への唯一の進入路である。服飾店のシンプソンズ・オブ・ピカデリーは、アレック・シンプソン(英: Alec Simpson)が1936年に203〜206番地で開設した店舗である。

20世紀中、ピカデリーはヘロインを入手できる場所として知られ、1960年代にはロンドンの脱法ドラッグ取引の中心地として悪名高かった。現在では状況が改善し、ロンドンの主要なショッピング街として知られている。名所としては、リッツ・ロンドンの他に、パーク・レーン・ホテル、アシーニアム・ホテル、インターコンチネンタル、フォートナム&メイソン、ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ、ロイヤル・エア・フォース・クラブ、ハッチャーズ、在英国日本国大使館、在英国マルタ国大使館 (High Commission of Malta, London) などが挙げられる。

ピカデリーはフィクションの世界に影響を与えていることでも知られ、オスカー・ワイルドの『真面目が肝心』やP・G・ウッドハウスの作品などにその例を見ることができる。またロンドンを舞台としたイギリス版モノポリーのボードのマス目にもイエローのカラーグループの1つとして登場している。

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