タンネンベルクの戦い(ドイツ語: Schlacht bei Tannenberg)またはグルンヴァルトの戦い(ポーランド語: Bitwa pod Grunwaldem)、ジャルギリスの戦い(リトアニア語: Žalgirio mūšis)は、ポーランド・リトアニア・ドイツ騎士団戦争中の1410年7月15日、ヴワディスワフ2世ヤギェウォ(ヨガイラ)率いるポーランド王国軍とヴィータウタス率いるリトアニア大公国軍の連合軍が、ウルリッヒ・フォン・ユンギンゲン率いるドイツ騎士団を破った戦い。騎士団は、フォン・ユンギンゲンをはじめ幹部のほとんどが戦死するか捕虜となる大敗北を喫した。ポーランド・リトアニア連合軍はさらにドイツ騎士団国の首都マリーエンブルク(現在のマルボルク)まで攻め込んだが、ドイツ騎士団はこのマリーエンブルク包囲戦を耐え抜き、翌年の第一次トルンの和約で領土喪失を最小限に抑えた。両陣営の領土をめぐる戦争は、1422年のメルノの和約まで続いた。しかし騎士団はタンネンベルクで受けた打撃から立ち直り切ることができず、また重い賠償金のために内部抗争が起こり、騎士団国は経済的にも衰退した。こうしてタンネンベルクの戦いは、ポーランド・リトアニア合同が中・東欧における政治的・軍事的な覇権を握る重要な画期と位置付けられている。